「こんやいっしょに月をみよう」について
新たに作品解説のカテゴリーを設けました。
ここで色々と作品について、語って行こうと思います。
今回、Independentに出展した新作の大型作品(90㎝×144㎝、もう1パネル右に追加可能→90㎝×180㎝)ですが、コンセプトとして、錆シリーズを始めてからずっと「時間」をテーマに制作しています。
この作品について語るのは、過去の自分を語ることになるというか、既に私の意識は次の作品に向かっているのですが、簡潔にまとめておこうと思います。
娘が生まれてから、このまま時間が止まればいいのに・・・と無理な願いを思うことが多く、限りある「時間」を意識するようになりました。こんな風に思う時が来るとは、10代20代の頃は想像が付きませんでした。と言うのは、その頃は、私は生きるのが苦しくて、若かったせいもあるでしょうが、今と言う時間が早く過ぎ去ればいいのにという無理な願いを思って生きていました。
時計というものは有限な命が与えられている人間が作ったものです。現在使われている六十進法の時間単位は紀元前約2000年にシュメールで考えられたものであり、1日を12時間2組に分けたのは古代エジプト人で、巨大なオベリスク(古代エジプト期に作られた神殿などに立てられた高い記念碑の一種)の影を日時計に見立てたことが起源らしいです。
地球には大勢の人や動物が住んでいて、色々な事象が同時並行で進んでいて、平和な時を過ごしている人もいれば、日々を淡々と過ごしている人もいれば、病気で苦しんでいる人や、戦争や飢餓に苦しんでいる人がいることも事実であり、実に様々なはずです。長いような人生ですが、宇宙や地球の歴史と比べると、人ひとりの人生なんてほんの一瞬に過ぎない短さです。そもそも宇宙というか自然には時間の概念なんてなく、静かにただただ永遠にそこにあるだけで・・・。
宇宙に浮かぶ月は、時間の概念のない世界で、多様な状況を生き抜いている私達人間のひとりひとりを照らし、恐竜の時代から古代人、現代人を照らし、そして未来人もずっと照らし続けることでしょう。
時代は変われど、人間の感受性は普遍的で且つ不変的で、もしかして恐竜を含め動物たちも同じ感覚を持っているかもしれませんが、永遠なる月を、私達人間(動物達も)は、誰もが同じ美意識で鑑賞し続けて来た/行くのではないかと思うのです。
月をみると、人類だけでなく宇宙と繋がることができるというか、自分の命の無限性(永遠性)を感じることが出来ます。
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
百人一首のひとつ、阿倍仲麻呂の歌です。
仲麻呂は、奈良時代に遣唐使で唐に渡り、30年以上唐で暮らした末、結局唐から帰国することはできず、唐で亡くなりました。唐で見ている月は、日本で見た月と同じ月だ、と詠っています。

私はこの歌を心に刻んで月をみると、時間という概念から外れることができます。奈良時代に生きた仲麻呂と同じ美意識で月を眺めている自分が奈良時代へフィードバックするのか、仲麻呂が現代にフィードフォワードするのか分かりませんが、同じ時を過ごしている感覚に陥ります。
このように、和歌をはじめ文芸や芸術は、後世に残るからこそ、次の世代との会話の懸け橋になることができます。
これを哲学者である九鬼周造は、言葉の本来の意味での芸術とは「永遠の現在」を表現するものであり、「時間の永遠化」の方法であると言っています。その意味での芸術は自己の人生そのものに美的形式を与え、それを鑑賞の対象とすることによって肯定しようとしています。
私は思春期に自己の存在意義について考え込んだことがありましたが、極最近、当時の疑問を九鬼周造の哲学によってポジティブに解明するに至りました。そうした自己の生涯のテーマとも相重ね、当作品の制作にあたりましたし、今後も同じテーマを軸に制作を続ける方針です。
ご精読ありがとうございました。